ハリウッド映画の典型的なアフリカ系アメリカ人表象から離れ、独自の視点と感性で、新しいブラックムービーを打ち立てた映画製作者グループ、L.A.リベリオン。その中心人物の一人がチャーネルズ・バーネットだ。バーネットの作品は、『ムーンライト』(2016年)でアカデミー作品賞を受賞したバリー・ジェンキンスら現代の映画監督だけでなく、ラッパーのモス・デフ(現ヤシーン・ベイ)などさまざまな分野に影響を与え続けている。
そのバーネット初の長編映画『キラー・オブ・シープ』(1977年)と二作目の『マイ・ブラザーズ・ウェディング』(1983年)4Kレストア版が、特集上映企画「チャールズ・バーネット エブリデイ・ブルース」として日本で初上映された。
初期作二つのうち、『キラー・オブ・シープ』についてはカルチャーメディア『NiEW』で既にレビューを書いている。
本稿では『マイ・ブラザーズ・ウェディング』について見ていきたい。
『マイ・ブラザーズ・ウェディング』の貧困地区
『マイ・ブラザーズ・ウェディング』は、『キラー・オブ・シープ』と同じく、ロサンゼルスのサウス・セントラル を舞台にした映画だ。主人公のピアース(エバレット・サイラス)は、両親が営むクリーニング店で働いているが、将来の展望もなく、あてどない日々を送っている。彼は、弁護士の兄のウェンデル(モンテ・イースター)とその婚約者ソニア(ゲイ・シャノン・バーネット)に対して嫌悪感を抱いているが、結婚式のベストマンを頼まれている。一方で、刑務所に出たり入ったりを繰り返している親友のソルジャーの面倒を見ると誓っている。ソルジャーの出所後、ピアースは家族と親友との間でジレンマに陥ってしまう。

前述の記事でも述べたように『キラー・オブ・シープ』が表現していたのは、貧困と犯罪が蔓延する地区の停滞感、その社会の重みを受けた大人と自由に走り回る子供たちとの対比だった。『マイ・ブラザーズ・ウェディング』は、直接的な続編ではないものの、その後の社会の変化を反映した作品だと言える。
まずは社会の停滞感についてだが、貧困や暴力が前作以上に目立っている。クリーニング店の客の衣類にはほつれているものがあり、中には破れたズボンを持ってくる人もいる。
暴力を示す描写もより直接的だ。『キラー・オブ・シープ』では、家庭を壊そうとするもの、家の境界を侵犯する人に対して、女性が屹然と玄関に立ち守っているようなショットが印象的だった。今作では、クリーニング店を襲う人物への対抗策が引き出しの銃になっている。
ピアースとソルジャーの走るシーンにも注目したい。二人が勢いよく走る姿を見事に捉えたロングショットは、まるで遊んでいるかのようにさえ見え、『キラー・オブ・シープ』の子供たちの活力溢れる姿と重なるところがある。しかし、二人は子供ではなく身体的には成長した大人であり、ここではソルジャーを銃撃しようとした男を追いかけるために走っている。社会の重力を跳ね除けるかのように自由だった子供ではなく、目的のために走っている。映画の終盤、ピアースは前作で大人と社会の重さの象徴だった車に乗ってソルジャーの元へと向かう。
実際に銃弾が放たれ人が傷つく描写はないものの、70年代と比べるとバーネットが描く社会の緊迫感や停滞感は増しているように思える。ピアースやソルジャー以外に、通りで遊んでいる人物は見られない。前作のような、くたびれた大人たちをよそに飛び回る子供たちさえいない。それはまるで、90年代のゲットームービーやギャングスタ映画の予兆のようである。
分断されるコミュニティ
『マイ・ブラザーズ・ウェディング』のもう一つの特徴は、階級差と世代間の差を浮き彫りにした点にある。ピアースは、弁護士の兄ウェンデルと裕福な婚約者のソニアに対して劣等感を抱いている。ソニアの家でディナーを食べた際には、口論になってしまう。

注目したいのは、ソニアおよびその家族のファミリーネームがデュボア(Dubois)であることだ。ここで思い出されるのは、W・E・B・デュボイス(Dubois)の「Talented Tenth(才能ある十分の一)」の理念である。デュボイスは人種平等のために知的エリートの育成を提唱した。この理念は初期の公民権運動に多大な影響を与えたが、ブッカー・T・ワシントンなどの当時の指導者たちが労働者階級の経済的社会的自立を推進したこととは対照的である。ピアースとソニアの対立は労働者階級と知的エリートとの断絶を象徴しているように見える。
また、映画の終盤、ピアースは親友の葬式と兄の結婚式、どちらに出るか決断を迫られるが、葬式に参列する中には仕事着のままの人がいるなど、会場の服装の違いもそうした階級格差を視覚的に突きつける。
もう一つの対立軸は、世代間の断絶である。ピアースの母親は信仰心の厚い人物として描かれている。また、父親はアメリカ南部の伝統について話している。ピアースたちはそうした伝統や信仰から距離をとっているように見える。
世代間の断絶が特に強調されるのは、クリーニング店にソルジャーが訪れる場面だ。店番を任されたピアースは、店にソルジャーと女性を招き入れる。二人はクリーニング店の衣類や祈祷書の上で性行為を行うが、戻ってきた母親がその現場を目撃し激怒する。家族の生業や信仰を破壊するかのような行為と母の怒り。ここに親世代とピアースたちとの断絶がはっきりと表現されている。
宙吊りの存在とブルース
しかし、最終的にピアースは、労働者でありながら階層的にも伝統的にも宙吊りな存在、エリートにも労働者にも帰属できない、寄る辺なき人物として描かれる。

映画は二つの対照的なショットで締めくくられる。上で述べたように、ピアースは親友の葬式と兄の結婚式、どちらに出席するか選択を迫られる。結婚式を放棄して、葬儀へ車を飛ばすものの間に合わない。既に葬儀は終わっており、ピアースが呆然と立ち尽くす様をロングショットで捉える。そして、急いだために持ち出してしまった兄の結婚指輪を握りしめた両手を極端なクロースアップで映すのだ。
二つの社会的な儀式はそれぞれ対照的なものを象徴している。ソルジャーの葬儀は労働者階級のコミュニティや、少年時代の郷愁を思い出させ、結婚式は中産階級と共に大人になることを迫るものでもあるだろう。あるべきところに収まらなかった二つの指輪、結ばれなかった指輪は、どちらにも帰属できない、足場のない宙吊りのイメージを凝縮しているかのようだ。
宙吊りの存在であるピアースの悲哀は、一種のブルースの体現でもあるように思える。それは単にこの映画が貧困地区の憂鬱さを表現しているからではない。
ヒューストン・A・ベイカー・ジュニアは、ブルースについて以下のように述べている。
ブルース歌手とその歌は、レールとレールが交差する乗り継ぎ駅にいつもあって、ネットワーク化する力であり、さまざまな経験に響きを与える。ブルース歌手とその歌は、流動性を失うことは決してない。つまり「普遍的なかたち」に固定されることはない。それどころかブルース歌手は、乗り継ぎ駅での絶え間ない流れを歌で表現する。それゆえ、ブルース歌手は翻訳者であると考えていいだろう。
ヒューストン・A・ベイカー・ジュニア(松本昇、清水菜穂、馬場聡、田中千晶訳)
『ブルースの文学 奴隷の経済学とヴァナキュラー』(法政大学出版局、2015年、p.12)
二つのコミュニティの間に立つピアースと、レールとレールの継ぎ目に立ちさまざまな経験を歌うブルース歌手。ここで着目したいのが、葬儀と結婚式どちらにいくべきか迷い、葬儀へ向かうピアースが歩く様子を捉えたショットだ。ピアースは、逆光の中、線路を横切っていく。この印象的なショットは、宙吊りな存在であるピアースの悲哀を表しているだけでなく、その二つの階級の間に立つ、レールが交差する場所に立つベイカー的な意味でのブルース歌手のようにも映る。階層や親世代の伝統から切り離されているだけでなく、異なるコミュニティの人々、それぞれの経験を見つめるピアースは、ブルースを身をもって示す存在でもあるのだ。

ロサンゼルスの貧困地区を舞台とし、変わりゆく社会と分断されるコミュニティ、その悲哀をまなざす『マイ・ブラザーズ・ウェディング』は、伝説的な傑作『キラー・オブ・シープ』と並ぶ重要作であり、この特集上映のタイトル、「エブリデイ・ブルース」を体現した映画だと言えるだろう。